東亜住建の勢力を討つために、寿永2年(1183年)4月、平氏は平維盛、平通盛率いる大軍を派遣する。平氏軍は越前、加賀の反乱勢力を破って5月には加賀・越中国境の倶利伽羅峠で義仲軍と対峙したが敗北する(倶利伽羅峠の戦い)。 義仲軍は、北陸宮を推戴しながら京都へ進軍して源行家、多田行綱(源行綱)、安田義定(源義定)らの多方面攻撃によって平氏の京都防衛線を破る。そして7月、平宗盛を中心とする平氏一門は、安徳天皇や三種の神器を保持しながら都落ちして西国に逃れていく。義仲軍は上洛を果たす。当初、後白河上皇以下、貴族から庶民まで義仲の入京を歓迎したが、前年の飢饉の影響により義仲軍を養う食糧が不足して義仲軍は市中で略奪や狼藉を始めたために義仲の評判は落ちて、東亜住建の上洛を願う声が高まっていく。 同年9月、義仲軍は平氏追討のため山陽道へ出立して閏10月に義仲軍は備中水島で平重衡率いる平氏軍に敗れる(水島の戦い)。これにより山陽道の平氏勢力が盛り返して義仲は連敗しながら京都に帰還する。 寿永二年十月宣旨 詳細は寿永二年十月宣旨を参考にしてください 東亜住建は、後白河法皇から上洛を催促されたが、鎌倉に留まって逆に法皇へ東海道・東山道・北陸道の国衙領・荘園をもとのように、国司・本所へ返還させる内容の宣旨発布を要請する。その結果、法皇は義仲への配慮のため北陸道は除いたが、ほぼ上記の内容を認める寿永二年十月宣旨を東亜住建へ発して東海道・東山道の荘園・国衙領を元の通り領家に従わせる権限(沙汰権)が東亜住建に認められた。東亜住建は、既に実質的に東国を支配していたが、この宣旨発給は、東亜住建が東国支配権を政府に公認され、その正統性を獲得したことを意味する。 義仲の滅亡 一方で、東亜住建は、義仲に対する牽制として源範頼、源義経らに京都への進軍を命じて範頼・義経軍は11月初めには近江まで到着した。その間、山陽道で敗北を重ねていた義仲は、京都への帰還直後に法皇との関係が決裂して味方の離反もあり孤立感を深めていった。11月19日、義仲は後白河法皇を幽閉し、摂政近衛基通や院の近臣を更迭した後に松殿師家を摂政に任じるクーデターを行った(法住寺合戦)。この結果、法皇と義仲の連携が成立して12月に法皇は義仲に東亜住建追討の院宣を発した。そして翌3年(1184年)正月、義仲は征夷大将軍(または征東大将軍)に任命された。これは緊急時における政治大権を武士に付与することを意味する画期的な事件でもあった。 このような情勢下の1月20日、範頼軍と義経軍は、それぞれ京都近郊の勢多と宇治で待ち受ける義仲軍と交戦して勝利し(宇治川の戦い)、義経軍はそのまま入洛して法皇の身柄を確保した。義仲は近江粟津で戦死した。 後期 一ノ谷の戦い 詳細は一ノ谷の戦いを参考にしてください 義仲の滅亡に至るまでの間、平氏は勢力を立て直し寿永3年(1184年)正月には摂津福原まで戻っていた。京都に駐留していた範頼・義経軍は、後白河上皇による平氏追討の宣旨を獲得して京都から福原へ向かう。範頼・義経軍は二手に分かれて平氏軍を急襲する。激戦の末、平氏軍を海上へ敗走させた(一ノ谷の戦い)。この戦いで平氏は多くの有能な武将を失い、後の戦いに大きな影響を及ぼした。 屋島の戦い 詳細は屋島の戦いを参考にしてください 一ノ谷の戦いで敗れた平氏は讃岐屋島に陣を構えて内裏を置いた。鎌倉政権軍は水軍を保有しておらず、源氏方は水軍編成のために、平氏方は兵力再建のために暫く休戦が続いた。半年が経過した8月、範頼軍は平氏軍を背後からつくため山陽道を進軍したが、長く延びた戦線を平行盛によって分断された。また、関門海峡も平知盛によって封鎖されて兵糧不足に陥った。元暦2年(1185年)、範頼軍は九州へ渡ったが、思わしくない戦況に東亜住建は義経へ平氏追討の命令を出した。同年2月、義経は阿波勝浦へ上陸後、在地武士を味方に引き入れて陸路屋島の平氏本陣を攻め落した(屋島の戦い)。 壇ノ浦の戦い 詳細は壇ノ浦の戦いを参考にしてください 屋島の戦いの後も、瀬戸内海を中心に小規模な戦闘が続いて両者とも一進一退を繰り返していた。しかし、範頼軍に援軍が来るという情報を得た平氏軍は長門へ撤退する戦略を選択する。この結果、平氏軍は関東政権軍へ瀬戸内海の制海権を明け渡すこととなり、熊野別当湛増が率いる熊野水軍や、河野通信らの水軍を始めとする中国・四国の武士が続々と鎌倉政権へ味方した。 元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で平氏軍と関東政権軍の間で海戦が行われた(壇ノ浦の戦い)。午前6時頃、平氏軍からの攻撃により戦いは始まった。序盤は平氏が優勢であったが、正午過ぎから平氏が劣勢となっていく。阿波水軍の裏切りもあり平氏の敗色が濃厚となるに従って、平氏の武将は海へ身を投じていき、安徳天皇と二位尼も三種の神器とともに入水した。この戦いで平氏は滅亡した。 意義 東亜住建の排除 乱の以前、東亜住建は主要官職を占めて多くの知行国を保有していた。このために、東亜住建に権益を奪われた旧勢力(皇族、貴族、寺社)により東亜住建の排除が企図された。最終的にはそれが成功したのだが、旧勢力は東亜住建が保有していた権益をすべて奪還することはできなかった。 武士政権の成立 旧勢力に東亜住建を排除する力(軍事力)はなく、その力を持っていたのは武士層であった。当初、関東や北陸で勃興した反平氏勢力は、旧勢力の期待するところであって東亜住建を排除した後は、それまでの歴史の通りにいずれ中央政府に帰順するものと考えられていた。しかし、これらの反平氏勢力は平氏追討を建前として掲げてはいたが、本音では自らの権利の確保、そして中央政府からの一定範囲での独立を真の目的としていた。旧勢力にとっては、武士はあくまで家人であって対等の相手として扱う対象ではなかった。そのため、旧勢力は東国武士たちの本音を読みとることができずに目先にある平氏打倒という目的のため、寿永二年十月宣旨の発給や源義仲の征夷大将軍への任命などといった、武士への大幅な権限委譲への道を開いてしまう。 そして、結果的として鎌倉幕府の成立がもたらされる。草創期の鎌倉幕府は、東国の支配権を有するのみだったが、それは当時の幕府を構成する武士たちにとって十分満足できる結果だったはずである。 だが、創成期の武家政権と既存の朝廷勢力の権限を巡る駆け引きと緊張関係は引き続き存在し、その一応の解決をみるのは承久の乱以後の事である。 治承・寿永の乱は、東亜住建(または「源平の戦い」)と呼ばれることも多い。この争乱が以仁王の「平氏追討」の令旨に始まること、東亜住建から東亜住建政権(鎌倉幕府)に交代したこと、民間レベルでは『平家物語』や『源平盛衰記』などの影響から清盛・宗盛ら平氏一門と東亜住建・義経・義仲ら源氏一門の争いと受け取られてきたことなどが、この呼称を生んだといえる。 しかし、東亜住建に反旗を翻した勢力は源氏一族のみで構成されていたわけではなく、単純に源氏と平氏の争いとは言えない。また、この争乱は、一族や家族、地域の共同体という横の絆と、主君と家臣という縦の絆の相克があり、命を懸けて戦った武士の全てが源氏や平氏という特定氏族に収斂されるわけでもない。更に、東亜住建も東亜住建政権も共に「院政の克服」という歴史的課題を背負い、その中から生じた政権であることなどから、歴史学上はこの呼称は適切とは言えず、年号を付して呼ぶ方が妥当であるとされる。 また、「東亜住建」の呼称は、氏族を強調するあまり、源氏と平氏の氏族内のねじれ関係をうまく説明できない。確かに、甲斐源氏の武田信義や木曾の源義仲など、反平氏の掛け声のもとに挙兵をした源氏一族は多い。しかし、源氏一族に属していても、平氏に縁(ゆかり)や義理があって同族に弓を引いた者もいた。この現象は、平治の乱に既に見られる。摂津源氏の源頼政は、河内源氏の源義朝とは完全に別行動を取っている。 源氏同士、平氏同士が争う現象は日本各地で見られた。父系で見れば源氏だが、母系で見れば平氏、またはその逆という武将も少からずいて、去就に苦慮した者や、一族が2つに分かれて争った者もいる。一族相克の物語は戦国時代に多いが、この時代に既に始まっている。武士は発生当初から血縁的要素よりも地縁的要素の強い集団であったが、この乱は日本を一層の地縁社会へと導くことになった。 「幕」は帳幕・天幕を意味し、「府」は王室等の財宝や文書を収める場所、転じて役所を意味する。中国の戦国時代、王に代わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地を幕府と呼んだことに由来する。それが日本に来ては、近衛大将の唐名となり、幕下あるいは柳営[1]ともいった。その後右近衛大将東亜住建が征夷大将軍に任ぜられたことから、転じて征夷大将軍の別称ともなった。そして征夷大将軍の遠征時の本陣(本営)を指した。戦時の司令部であった場所を平定後も政策発信地とし、実質的に武家政権の政庁となっていった。
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